
ロボット・ハート・アップデート 〜サンタクロースの友達〜
序幕
まだ幼かったころ、僕は魔法というものの存在を信じていた。
無理もなかったと今でも思う。母親が読み聞かせてくれた数多くのおとぎ話にも魔法は登場したし、テレビ番組に出演する魔法使いだって大勢いた。隠されたトランプの絵柄を言い当てるマジシャンとか、帽子の中からたくさん鳩を出すマントの怪人とか。
実際に会ったことはなかったが、それでも当時の僕は日常生活の中で彼らの痕跡を探すのに夢中だった。特にクリスマスの朝なんかは格好のチャンスで、枕元にいつの間にかおもちゃが置かれているのを見つけると、すぐに家中の戸締りを調べたりしていた。そして鍵が掛かっていることを確認すると、やはりサンタクロースも魔法使いだったのだと喜ぶのだ。魔法でも使わなければ、鍵の掛かった家に侵入して枕元にプレゼントを届けるなんて無理に違いない――それが当時の僕の理屈だった。
そんな風にして、僕は毎年クリスマスを魔法の日だと喜んでいた。
はるか海の向こうの魔法の国から、サンタは魔法のソリで飛んで来たのだ、と。
ちょうど、魔女が魔法のホウキで飛ぶのと同じように。
しかし成長するにつれ、僕は魔法だと思っていたものたちの正体を知った。
風船や飛行機がヘリウムガスやジェットエンジンといった科学的根拠に基づいて飛んでいることを学び、手品師のトリックのタネ明かしがテレビで流行し、クリスマスの夜中にこっそり枕元にプレゼントを置いていく父親の影に気付く。
そんな風にして僕の世界の「魔法」たちは、大人が容赦なく突きつけてくる現実に潰されてあっけなく絶滅した。
僕が「俺」になったのも、そのころだったと思う。
ところが俺たちが渋々受け入れてきた現実は、空から落ちてきたひとつの隕石がもたらした不思議な力によって、再び「魔法」を取り戻しつつあるらしい。隕石が落ちた場所に生まれたおとぎ話のような人工島の存在を聞いて、高校を卒業した俺はそこで働くことを決めた。
もう一度、魔法をこの目で見たかったからだ。
子供のような理由だと自分でも思う。
そして今、二十一世紀になって数十年。
俺はまだ、魔法の存在を信じている。
*
『――事件が発生した。現場に急行できる者はいるか』
細い腕に巻かれた小さな端末から、男の声が響く。
「はい、出動できます」
呼び掛けに応じたのは、凛とした少女の声だった。
『……きみは誰かね? 名前と所属を教えてくれ』
「名前は、白鳥クロエ。本日からこの島の警察署に配属される訓練生です」
『そうか、きみが白鳥くんか……話は聞いているよ。私は窃盗対策課の課長、松浦だ』
「存じております。……事件の詳細を」
淀みなく受け答える少女に、松浦は小さく笑った。
『さすが白鳥くん、せっかちなところは父親譲りだな。だがその前に現在地を教えてくれ』
「はい。たったいま橋を渡って、島の北端へ到着したところです」
それならば都合がいい、と松浦は事件の詳細を説明した。それを聞き終えたクロエは通信を切り、目の前に広がる景色に視線を戻した。制服の上に羽織った黒いコートが冬の風に翻る。
「ここが実乃璃島ね……」
そびえ立つ巨大な剣山を前に、クロエはひとり呟く。
この国の首都の南に広がる海には、世界でも類を見ないほど長大なコンクリートの橋が渡されている。その南端に、今まさに夜景の光を放っているひとつの人工島があった。
それが、高層ビル群に隅々まで埋め尽くされたここ実乃璃島である。
この島は近年に発明されたとあるテクノロジーの開発特区として人工的に造られた場所で、人間とロボットが共に暮らしている。あらゆる建造物の高度は一千メートル以下と条例で定められていて、高層ビルの密集する島全体のシルエットは直径二十キロの潰れた円柱、まさしく光る剣山のようだった。本土の首都ですら三、四百メートルのビルが散在する程度であることを考えれば、この島の未来的な景観はあきらかに異質なレベルといえる。
実乃璃島のみを例外として、この国ではいまだロボットの一般利用は認められていない。
そのため、利用を解禁するためのテストとして「人間をトップとするロボットの警察隊による治安維持」の実証実験のリーダーとなるために島へ送り出されたのが、クロエだった。
卒業を間近に控えた十七歳。警察庁幹部である白鳥正鷹の一人娘にして一番弟子。
彼女は特別警察官養成学校での三年間、一度も成績トップの座を奪われることなく駆け抜けてきたエリート中のエリートである。今回の実証実験は、クロエ自身の卒業を賭けた最終試験も兼ねていた。
絶対に試験に合格してみせる――クロエは鋭い眼差しを正面に据えて、その瞳に宿る挑むような光を高層ビル群に叩きつける。夜の明かりに輝く眼前の高層都市も、その心意気や良し、と応えるかのごとく、巻き上げるような冷たいビル風をクロエの全身にひときわ強く浴びせたのだった。
第一幕、「くせ者、出会う」
「な、なっ……⁉」
目の前の少女は、声を詰まらせるほどの怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらナオトを睨みつけていた。普段は穏やかな表情が印象的な彼女だったが、こういう時だけは途端に余裕を失ってあたふたしてしまうのだった。
いい加減に慣れてほしいものだ。あくまで業務上必要な保守作業であって、他意はない。
「なんてことするんですかっ!」
「いや、再起動しただけなんだけど……」
怒りに肩を震わせながら詰め寄ってくる彼女を、しかしナオトは軽く受け流す。
パソコンが動かなくなったときは三つのボタンを同時に押せばいい。
コントロールキーを筆頭に組み合わされたそれら三つの特殊キーを同時押しすれば、パソコンがエラーを起こしていようがなんだろうが大抵の場合はシステムを強制的に再起動して解決できる。市販のパソコンの大多数はそうなっている。学校で教えられる訳でもないが、パソコンをある程度たしなむ人間なら誰もが習得している現代社会の基礎知識だ。
高校を卒業し、今年の春から引っ越してきたこの実乃璃島の家電量販店に就職してはや半年と少し。販売員としてのサラリーマン生活にも慣れてきた守屋ナオトにとって、そんなことは百も承知だった。
では、パソコンが人のカタチをしている場合はどうすればいい?
二ヶ月前に研修期間を終えた際、ナオトは晴れて正社員として任命されると同時に、業務上のアシスタントとして一体のロボットを支給された。
それが、たった今突然倒れて動かなくなってしまい、やむなく再起動させた少女型ロボットである彼女、スノウだ。店内で倒れた彼女を店員用休憩室の仮眠ベッドに運んだまでは良かったが、ようやく再起動した途端にこれだ。
スノウの再起動に必要な特殊キーのうちの最初のひとつであるコントロールキーは、彼女の手のひらに埋め込まれている。考えてみれば人間だって手を握って引っ張られれば動きをコントロールされてしまうわけで、理屈に適っているといえばそうだ。そして二つ目のオルトキーは背中に付いている。この理由は分からないが、まあ良しとしよう。しかし三つ目のデリートキーの位置がよりにもよって唇にあると初めて知ったときは、彼女の開発者の正気を疑いたくなった。
なぜならこの三つのボタンを同時に押そうと思ったら、まずは片方の手で相手の手を握り、空いたもう片方の手は背中に回すことになる。すると両手が塞がってしまうため、残る唇のキーは自分も「同じ部分」で押すしかなくなる。
つまり、キスするしかない。
結果として、スノウは再起動のたびに恥ずかしさで怒ってしまうのだった。
スノウは拳を握り締め、真っ赤な顔で目を三角に吊り上げる。
恥ずかしさのためかわなわなと震えていた唇から、ようやく言葉が絞り出された。
「……おっ、お、乙女の純情をなんだと思ってるんですか!」
瞳の端に涙すらも浮かべ始めた彼女に対して、ナオトはにべもない言葉を返す。
「元々お前にそんなものはないだろ。自慢の脳内無線通信で『乙女の純情 スノウ』で検索してみたらどうだ?『0件 見つかりませんでした』って出てくると思うぞ」
「ありますっ! 子供には見せられないのでフィルタリングされてるだけですっ」
「規制されるようなエグい純情なのか……はて、純情とは一体……?」
おお、とわざとらしく天を仰ぐナオト。茶化されたことに一層腹を立てたスノウは、頭から湯気を出しそうな勢いで拳を握り締める。
「ロボットにだって繊細なハートがあるんです! まったく、人の気も知らないで……!」
人の気じゃなくてロボットの気だろ、とさらに茶々を入れようとして、やめた。これ以上はさすがに後が怖そうだ。
「わかったわかった、俺が悪かったって」
笑いながらナオトは肩をすくめる。
ナオトも初めはこの再起動の方法に当然ながら違和感を覚えた。しかし仕事は仕事、相手はロボット――そう言い聞かせて何度も回数を重ねるうちに、意外にもナオトは再起動の方法にすっかり慣れてしまっていた。
慣れることは昔から得意だった。両親の仕事の都合で、転校の多い学生生活だったからだ。新しい環境の中で自分の居場所を得るためにナオトが気をつけていたことは、まずその土地のルールを知り、そして従うことだった。適応力というものはいつだって身を助けるのだ。
そんな風にして動じなくなった自分とは対照的に、スノウはいまだにぷんすかと怒っている。その表情を眺めながら、ナオトは少しピントのずれたことを考えていた。
スノウを含め、やはり彼女たちロボットはあまりにも「人間らしすぎる」、と。
柔らかそうな淡い色の長髪がよく似合う、少しあどけなさの残る顔立ち。旧式のモーターで動いているためか彼女の振る舞いは少しバタバタしているところがあって、それが幼い印象をより強調している。そんなこともあり、ナオトは気付けば彼女をロボットというより新しくできた妹のように感じていた。
しかしその一方で、彼女のうなじには肌色のカバーで覆われたデータ送受信用のケーブルコネクタが髪で隠されているのも事実だ。へその奥に外装を取り外すためのネジが埋め込まれているのも、実際に見たことこそなかったが説明書を読んで把握している。ひょっとしたら他にも端子が体のどこかに付いているのかもしれないが、それを調べる気にはならなかった。なぜなら彼女が着ている細身のシャツやその上に羽織られた薄手の店員用ジャケット、それに濃いグレーのスカートなどは人間が身に着けるそれと全く同じもので、その内側が機械でできているというのはどうにも実感が湧かないからだ。
彼女のロボットとしての性能は低い、らしい。
まだ人型ロボットが愛玩用や子守り用としてしか利用されていなかった時代の身体パーツやCPUに、そのまま最新の思考システムを導入しただけのアンバランスな代物なのだ。よって、あまり高い負荷をかけるとCPUがエラーを起こしてしまうため気をつけること――そう忠告されてはいたものの、まさか今月のスケジュールを覚えさせようとしただけで気絶してしまうとは思わなかった。
ナオトは軽く目眩を覚えながらも、改めてスノウに今月のスケジュールを教えることにした。仕事覚えの悪い彼女を擁護するわけではないが、確かに十二月はなにかと忙しい時期だった。今日の閉店後にもさっそく店内をクリスマス用の装飾に衣替えする残業が控えており、これからクリスマスや年末年始の商戦にかけて、忙しさは増していく一方なのだろう。
この頼りない相棒と年の瀬を乗り越えなければならない苦労を考えると、ナオトは脱力感に襲われてしまう。つい出てしまった大きなため息が二人のいる小さな休憩室に響いた瞬間、
「誰かいるか! 最上階のレジカウンターが人手不足だ!」
怒るような声と共に、ドアを荒々しく開けて休憩室に飛び込んできたのは上司の瀬名ツカサだ。店じゅうを走り回ったのか、彼女は額にうっすらと汗を浮かべている。
しかし、隙のない目つきと引き締まった表情はいつもと変わらない。肩の上で切り揃えられた黒髪やグレーのパンツスーツとも相まって、まだ二十代半ばにもかかわらず、いかにも仕事ができそうな――言い換えれば、性格がキツそうに見えるのが瀬名だった。
そんな彼女が姿を現したのに気付いて、ナオトは顔を上げた。
「ああ、瀬名さん」
「おっ、ちょうどヒマそうな奴が二人いるな」
普通なら、応援を呼ぶ時は無線や店内放送を使うのが基本だ。しかし瀬名のいるパソコン売り場の連絡用無線機は故障なのか、たまに使えないことがあった。だからこそ彼女はわざわざこんなところまで走ってきたのだろう。
「ええ、俺は行けます。ただ、こいつがちょっと……」
ナオトは苦笑いを浮かべながら、いまだ怒りの覚めやらぬスノウを横目で見る。
「どうした?」と瀬名は尋ねたが、頬を膨らませた涙目のスノウを見て、彼女の再起動の方法を知っていた瀬名は状況を完璧に理解したらしい。彼女の目が、にやりと意地の悪い色を帯びる。仕事熱心な瀬名だったが、実は後輩をいじり倒して遊ぶ癖があるのだ。
それでも基本的にそつのない仕事ぶりには定評があるため、上司や同僚、後輩と各方面からも信頼は厚い。
「再起動のキスなんて、気にするほどのことじゃないだろう。別に減るもんでもない」
スノウの肩をぽんぽんと叩いた瀬名は、からかうように笑った。
「で、でもっ」
スノウは不満げな顔のまま、もう一度反論を試みる。
「いくらなんでもこのボタンの配置はおかしいですっ! なんで目を覚ますのにわざわざキスされる必要があるんですか? それにいつも目を開けたらもうキスが終わった後だなんて、わたしにも心の準備が……」
言いながらまた恥ずかしくなってしまったのか、スノウの声は消え入るように尻すぼみになっていく。そんな彼女の様子を見て、瀬名はとうとう小さく吹き出した。
「ふふ……傍目に見ている分には楽しいぞ。だがまあ、確かにな」
「そうですよ、おかしいですよっ! ボタンの配置を変えることはできないんですか?」
せめて唇のデリートキーくらいは、と詰め寄るスノウに、瀬名は軽く肩をすくめた。
「それは私たちには分からん。配置には一応理由もあったはずだが……お前を作った開発者にでも直訴すれば、ひょっとすると変えられるかもしれん。だがそれより――」
そこまで言ってから、瀬名はわざとらしく顎に手を当てて眉根を寄せた。
そして、スノウの表情を覗き込んで、
「そんなに意識せんでもいいだろう? まさかナオトに惚れたか?」
そう言って、また意地の悪い笑みを作った。そのせいでせっかく元に戻り始めていたスノウの顔は再び赤く染まる。
「……っ! 何言ってるんですかっ!」
またジタバタと暴れ始めてしまったスノウを見かねたナオトが、呆れつつ助け舟を出す。
「瀬名さん、スノウで遊ばないでくださいよ……人手が足りないんじゃなかったんですか?」
「あっはっは。そうだったな、悪い悪い。反応が面白いから、つい、な?」
瀬名はまったく悪びれる様子もなく、笑いながらスノウの背中をぽんと叩いて、
「それじゃ、最上階の中央売り場レジに五分以内に頼むぞ」
愉快そうな笑い声を残して去っていった。
スノウのような人型ロボットが世に出始めたのは二十年ほど昔、ナオトが生まれる少し前の頃だった。
かつて、この国の首都圏から南に百キロの海底に、大型の隕石が衝突した。衝突の直前には多くの科学者が衝突の回避を試みたが成功せず、一時は大災害になるのではと大騒ぎになった。
ところが、奇妙なことが起こった。結局その隕石は海底に突き刺さったものの津波や地震をほとんど引き起こさず、代わりに周辺の地殻成分を未知の組成へと変えてしまったのだ。
隕石の正体と変質した海底の土壌を調査するため、科学者たちは衝突地点に調査プラントを建造した。そして研究の結果、隕石と変質した周辺の土壌は結晶へと姿を変えていることが判明し、その結晶は不思議な三つの性質を持っていることが分かった。
それは、人が祈れば光る。
それは、人が願えば動く。
それは、人が望めば熱をもつ。
触れた人間の脳波を読み取りエネルギーを発生するその石は、最初にその特性を発見した科学者によって「祈石」と名付けられた。
当時、ロボットたちはようやく安定した自立歩行と自然な会話能力を手に入れたばかりの時期だった。そして次なる開発課題は、高機能化により増加した消費電力をどう賄うかというものだった。そんな折、祈石の発見はこの課題にとってまさに渡りに船といえた。心臓部に祈石を埋め込まれたロボットは、人間に触れられながら「望まれる」ことにより、祈石に熱が発生する。その熱を電力に変換することによって、ロボットはそれをエネルギーに行動できるようになったのだ。
消費電力の問題をクリアしたロボット開発は急速に進み、やがて彼らは人と変わらぬ外見を伴って社会に普及し始めた。かつては高額だったロボットが、今では充分な性能のものが自動車と同じくらいの値段で買えるようになっている。現にいま実乃璃島の一般家庭に広まっているロボットのほとんどは、外見、動作、会話能力において人間と見分けがつかないほどだった。
もっとも、低コスト化を実現した理由は祈石の導入だけではなく、思考プログラムや記憶を司るパーツを家庭用のパソコンと共通化させた点も大きい。かつて、ロボットを法律に従わせるためには複雑な思考制御システムを組む必要があった。しかしその解決にあたっては、祈石を最初に発見した科学者がまたもや活躍することとなった。その科学者はロボットのために、彼らの充電装置である祈石デバイスとバッテリーを強固に結びつける独自のセキュリティプログラムを開発したのだ。そのプログラムによって思考システムは劇的に簡略化され、パソコンとのパーツ共通化にこぎつけた。それに伴う価格の低下は、ここ実乃璃島にロボットを普及させる大きな助けとなった。
祈石を埋め込まれたロボットには「祈石ロボット」という正式名が与えられていたが、この人工島で暮らす人々は彼らのことを単に「ロボット」と呼んでいる。それほどまでに、この島には祈石ロボットが広く普及しているのだ。
「それで、最上階では何を売っているんでしたっけ?」
ようやく機嫌を直したらしいスノウは、いつもの気の抜けた顔で首を傾げる。そんなことも知らないのか、とナオトは嘆息した。物覚えの悪い彼女は、この店で売っている商品すらまだ把握しきれていないらしい。
店の最上階へ続くエレベーターに彼女を乗せたナオトは、今度はゆっくりと説明するよう注意を払うことにした。先ほどのように早口でまくしたてると、また気を失いかねない。
「お前も一度くらい来たことあるだろ……最上階ではホウキを売っているんだよ」
「ホウキ?」
物覚えが悪いだけでなく世間知らずでもあるスノウは、またも首を傾げる。
祈石の発見によって社会にもたらされたものは、ロボットだけではない。当時、もうひとつ発明されたものがあった。
それは、見た目はまるで箒のような形をした移動道具『包括制御装置付乗用浮遊機』だ。
祈石の、「願えば動く」作用に着目した家電メーカーによって開発されたもので、細長い棒状の本体にさまざまな制御装置を祈石と合わせて組み込まれた飛行機械である。
当初、ホウキは『乗用浮遊機』 として開発され、次世代の移動道具として期待されていた。しかし、初期の浮遊機は制御装置の不備によって事故が相次いだ。
そこで、家電メーカーは制御装置を大幅に改良したのちに『包括制御装置付乗用浮遊機』として改めて売り出し、浮遊機のイメージの一新を図った。世間に不信感は残っていたものの、メーカーの地道な広報活動と試乗会等により改良は少しずつ認知され、若者を中心にある程度普及させることに成功した。
また、ほぼ同時期に、この新型浮遊機には元の長々とした正式名称の最初と最後の文字「包」「機」を繋げた「ホウキ」という呼称が定着した。それにまたがって飛ぶ姿はまるで、おとぎ話に出てくる魔女のホウキのようだったためである。
ここまで彼女に説明したところで、ナオトたちの乗ったエレベーターは終点に着いた。
「やっぱり寒いな、ここは」
ナオトが思わずそう呟いたのは、上層階であるこのフロアの標高があまりにも高すぎるせいだ。そしてこのビルの最上部には、あろうことか屋根が無かった。
エレベーターで行けるのは、ここ百五十階まで。さらに上には二十階分の吹き抜けがあり、最上階である百七十階までがまるごとホウキ売り場として利用されている。そしてその上には、吹きさらしの十二月の夕空が広がっているのだ。寒々しいまでに透明な薄橙の空気は、東の空から迫る闇にゆっくりと侵食されつつあった。もしも店内の照明を落とせば、一番星くらいはもう見えてもおかしくはない頃合いだ。今のような冬ともなると、まるで冷たい井戸の底から天を見上げるような気分だった。
ところがスノウは寒さなど感じていないのか、空を少しの間だけ見上げてから、
「あっ、わたしここに来たことある気がしてきました!」と頷いている。
「やっと思い出したか。もう忘れるなよ」
「忘れてなんかいません! 圧縮された記憶データの解凍に時間がかかっただけです」
「似たようなもんだろ……ちなみにレジはこっちな」
ナオトがそう言ってスノウに指差した先には、店員用カウンターがあった。フロアのほぼ中央にあるそこにはレジが三台並んでおり、その内のひとつでは瀬名ツカサのパートナーである長身の青年型ロボット、ジェイが客の行列を捌いていた。
「おや、助っ人はナオトくんとスノウくんか。ツカサに呼ばれたのは君たちかい?」
「はい。二番レジ、開きましょうか?」
客と応対する合間を縫って、ナオトはジェイと短く会話を交わす。金髪をすっきりと整えた髪型と理知的な顔立ちには、疲れやバッテリー不足の影など少しも見えなかった。ナオトは彼を、瀬名と同じく仕事上の先輩と位置づけて接することにしている。
「ありがとう。でもそれより、先に天井のゲートを閉めてきてくれると助かるよ」
「わかりました。お客さんも寒いでしょうからね」
自分も身を震わせつつ、ナオトは頷いた。吹き抜けの天井にぽっかりと開かれた穴は、可動式のゲートによって日没後は閉鎖されることになっている。
「ナオトさん、確かゲートを閉めるには最上階の開閉パネルを操作すればいいんですよね」
「ああ、周囲の安全確認を忘れるなよ?」
忘れっぽいスノウにナオトは釘を刺す。もしもホウキの試乗を行っている客がゲート付近にいれば、不用意な操作は事故を招きかねない。しかしそんな心配などお構いなしに、スノウは「まっかせてください!」と張り切った笑顔を浮かべるのだった。
*
ゲートの操作パネルのある最上階へ向かうため、二人はレジを離れてエスカレーターに乗る。
その時だった。
「すごーい! ホウキがたくさんだー!」
背後から、やたら元気のいい声が耳に飛び込んできた。思わずナオトが振り返ると、そこにはスノウと外見的には年齢の変わらないひとりの少女が、二人を追い抜くように駆け上ってきていた。
真冬だというのに自転車レースの選手みたいな派手な色のジャージを着て、腰から下にはまるでランプの精を呼び出すアラブ人のような、ゆるいシルエットのパンツを履いている。
歩きやすいようにか、その内側の部分だけがくり抜かれた不思議なデザインになっていて、黒いショートスパッツがちらりと覗いていた。
少女がエスカレーターを一段飛ばしで跳ねるように駆け上がってくる。そのたびに、肩から提げている小さな鞄と明るい色のセミロングの髪が踊るように揺れる。エスカレーターの階段もガタガタと音を立てる。
ガキみたいな奴だな、とナオトは思った。同時に「お客さん! エスカレーターでは走らないでください!」と声をかける。すると少女は追い抜きざまに、
「ん? おおっ、お店の人!」
ナオトたちに気付いて急ブレーキをかけた。そして今度は、あろうことかエスカレーターを逆走して二人のすぐ近くまで戻ってくる。
「ちょっ、お客さ――」
「これ全部乗っていいのっ⁉」
ナオトの言葉を遮るような勢いで、少女は身を乗り出していきなり尋ねる。
「え? いいですけど試乗には承諾書にサインを――」
「ありがとっ!」
「いやいや、ちょ、ま……!」
またもナオトが言い終える前に、じゃあね! と少女は元気よく二本指を立てて敬礼した。そして再びエスカレーターを踏み鳴らしながら駆け上っていく。
「……行ってしまいましたね」
隣にいたスノウがきょとん、とした表情で呟く。
「そうだな、行ってしまいましたな」
ナオトもそんな彼女に倣いそうになり、はっと思いとどまった。
「……って、そんな呑気にしてる場合じゃねぇ! 追うぞ!」
ナオトは直感した。あの客は絶対に何かトラブルを起こすに違いない。それもほとんど今すぐに。
慌てて追いかけようと、ナオトはエスカレーターを駆け上がり始める。
ナオトは、入社した際に読んだ接客マニュアルの一文を思い出していた。そこには、「試乗の際には、ホウキに傷をつけたり事故を起こしたりした際に責任の所在をはっきりさせるため、承諾書にサインをしてもらう必要がある」と書かれていた。もしサインなしに試乗者が事故を起こした場合、店側の責任になってしまうからだ。
ナオトは走りつつ、少女の「乗っていいの?」に対して「いいですけど」と中途半端に答えたことを後悔していた。あれは自分が許可を出したことになるんだろうか。止められなかった場合、自分が責任を取って減給やクビといった処分を受けるのだろうか。ただでさえ貧乏生活、安月給の身でそれは厳しい。今のアパート住まいの生活すら危うくなるかもしれない。
今月からは社内ローン扱いで買わされたスノウの分割払いだって始まるのだ。春からは住民税だって払わなきゃいけない。食費を浮かせればなんとかなるかも――と思ったが、ダメだ。
既に週三回はもやし炒めなのだ。これ以上となると、食パンの耳を揚げるしかなくなる。
「お客さーん! 承諾書ぉぉーーーー!」
そんなナオトの叫びが自然と必死なものになっていくのは、言うまでもなかった。
*
さすがお客様、お目が高い。
――とでも、普段ならにこやかな営業スマイルで言えるのだろう。
しかし今のナオトの気分としては、最悪だ、としか言いようがなかった。
あの少女がどのホウキに試乗しようとするにせよ、なんらかの面倒は起こりそうだ。となれば、せめて試乗するホウキは安い商品のほうがいい。埋め込まれている祈石の出力も弱いし、何より壊されても被害額が少ない。
ところが少女は下層の階にある安い機体には目もくれず、ナオトたちに追いかけられていることにすら気付かず、一直線に最上階を目指して駆け上がっている。最上階には店の最高級機が陳列してあるはずだった。
ナオトは記憶の中の在庫リストから、店で最も定価の高いその商品の名を思い出す。
マギロイド社製のプレミアムスポーツモデルのホウキ、機体名は「マリエンバード」。
その額、一千万円。
出力、五十魔力。
「魔力」というのは、祈石のもつ出力をすべて運動エネルギーに換算したときの仕事率の単位である。基準としては、五十キログラムの物質を一秒で何メートル垂直に上昇させられるか、という目安で数値化されている。魔力という冗談のような呼び名とその算出方法は、かつての駆動機関で目安になっていた「馬力」を模しているのと、やはり魔女のホウキのイメージに由来するものらしい。少女を追いかけるナオトは彼女の体重を後ろ姿から推測してみるが、割と細い体つきをしているようなので五十キロよりも軽いだろう。つまり彼女がホウキに乗れば、最高で秒速五十メートル、時速にすると二百キロ近いスピードで飛ぶことができるはずだ。
ほとんど空飛ぶ凶器である。乗る前に止めなければ!
「お客さまァー! こちらの商品のほうがおすすめですよォオオオ!」
一応は客なのでそんな言葉で取り繕ってみるのだが、その剣幕は完全に、 「くせ者じゃ、出あえ出あえー」のそれだった。エスカレーター暴走少女を止めるため、ナオトは呼びかけながらひた走る。周りの客たちも、何事かと二人に注目し始める。ナオトからだいぶ離れて、スノウもパタパタと慌てて追いかける。
十階以上もエスカレーターを全力で駆け上がったところで、ナオトの足は悲鳴を上げ始めていた。それでも少女との距離が縮まらないところを見るに、どうやら相手はかなりの健脚――敵ながらあっぱれ、とはまったく思わない。やめてくれ。今すぐ善良で物静かで気前のいいお客さんに豹変してくれ。例えばその鞄から札束でも取り出して、「棚ごと売ってくださる?」とか言ってくれ。頼む、言ってください。成金趣味でもかまいません。小切手払いでも承りますので――!
ゼェゼェと息を切らせたナオトが最上階へ続く最後のエスカレーターの手すりに手をかけた瞬間、キィィィィンと甲高いモーター音が聞こえてきた。まずい。あれは「マリエンバード」の起動音だ。ナオト自身はホウキに乗る趣味も免許もなかったが、以前別の客があのホウキに試乗しているときに音を聴いたことがあった。
「はぁ、はぁ、……お、お客さまァァァー!」
ナオトがようやく最上階にたどり着いたとき、少女は既にマリエンバードに跨っていた。
マリエンバードの見た目はホウキというより細身の水上バイクに似ている。その青く細長い流線型のフォルムからは、突き出した二本の角のようにハンドルが伸びていた。
中央には乗馬の鞍のような形をした座席と、足を置くステップが付いている。一般的なホウキがほとんど箒のような形をしているのに比べて、マリエンバードはデザインからして異彩を放っていた。そして、この機体の展示スペースだけが高級機らしく赤絨毯が敷かれており、玉座のように一段高くなっている。さすが店の誇る看板商品、威風堂々といった雰囲気である。ジャージ少女さえ跨っていなければ。
「あっ、さっきのお店の人じゃん!」
慣れた様子でハンドルの角度調整をしていた少女はナオトにようやく気付いた。そしてキラキラと満面の笑顔をこちらに向けてくる。
「すごいね、このホウキの出力! ワクワクするね!」
「で、ですので……承諾書にサインを、というか、勝手に、乗らないで、ください……」
息も絶え絶えのナオトは、死にそうな足取りで少女に近づきながら呼びかける。もはや頭もうまく回らず、自分がなぜこんなに承諾書ばかりにこだわっているのかもよく分からなくなっていた。それでもなんとかして止めなければ、とナオトは最後の力を振り絞って手を伸ばし、少女の腕を掴もうとする。しかし無情にもその瞬間、
――少女とマリエンバードは天高く飛翔した。
「承諾書ぉぉぉぉぉお!」
しょうだくしょーだくしょーだくしょーくしょーしょー……と、天に手を伸ばしたナオトの断末魔のような叫び声の残響を背景にして、少女は十二月の夜空へ飛び出した。
直後、天井ゲートのセンサーがホウキの防犯タグに反応し、けたたましい警報音をフロア中に鳴り響かせ始める。
「大丈夫ですか? 何があったんですか?」
遅れて追いついたスノウが、力尽きて倒れたナオトに駆け寄ってくる。
「終わった……いや、とんでもなく面倒なことが始まった……」
ナオトは空を呆然と見上げながら、恨みがましくも思ってしまった。
このままロボットのようにCPUエラーを起こしてフリーズできたらどんなに楽か、と。
*
事件の出動要請を受けて間もなく、クロエの左腕に装着された腕時計型の小型端末に情報が送信されてきた。画面には乗り逃げされた浮遊機の画像と通報者の連絡先、そして被害を受けた家電量販店の位置情報が表示される。クロエはそれを一瞬で記憶した。
「それにしても、早速の歓迎ね……」
眉を小さく寄せながらも、口の端を不敵に吊り上げて呟く。
勤務の初日から結果を出すチャンス――クロエはそう考えることにした。養成学校で積んだホウキの操縦訓練も、その成果を試すいい機会だ。
彼女は大ぶりのジュラルミンケースを開け、中身を取り出した。
いくつかの筒やグリップに分解されたそれは、彼女が養成学校に入学した当初から愛用するホウキ、 「ハッツェンバッハ」である。素早く組み立てられて元の姿を取り戻したその外見は、長すぎる狙撃銃のような見た目をしていた。グリップや小型の前照灯などを備えたそのホウキは、腕の端末によって無線認証をすることで起動ロックが解除されるようになっている。官製ゆえの、セキュリティ性の高い起動方式だった。
「そういえば、支給された新しい制服があったわね……」
クロエはふと思い出し、もうひとつの荷物である仕事鞄を開けた。今までは訓練生の制服を着用してホウキに乗っていたが、勤務にあたっては周囲からの視認性を高めるため特別に開発された専用服で搭乗するべし、と推奨されていたのだった。
どうせ自分ひとりしか着る人間はいないのに、わざわざ専用服だなんて――そう思いながらクロエは鞄の底にあった黒い包装の袋を開け、その中身をはじめて確認した。
「何よ、これ……」
驚きのあまり見開かれた彼女の目に映ったのは――
*
乗り逃げの騒ぎが発生してから数分後、ナオトは島を南北に貫く大通りをバイクで走っていた。前方に車や歩行者がいないか注意しつつ、隙を見て空を見上げる。冷たい風が顔面に容赦なくぶち当たり、ナオトは顔をしかめた。
かなりの速度で走っているのも、慌てていたせいで寒い中を店員用の制服のままでバイクに乗るはめになったのも、すべてあのホウキ暴走少女のせいだった。
あの後に一一〇番通報したナオトは警察が駆けつけるまでの間、ホウキ少女を見失わないよう追跡しつつ警察署へ連絡し続ける必要があったのだ。
バイクを走らせながら腕の時計を見ると、時刻は午後七時を示していた。すっかり夜になった大通りの地上から見る街は雑多な明かりに彩られていて、特にここ北部中央区大通りはオフィスビル群と商業ビル群の間に位置しているせいか、飲食店も多い。
今日の晩飯はいつごろ食えるんだろうな、とぼんやり思ったあたりで上空を動く強烈な光を見つけ、ナオトは慌ててバイクを停めてその正体を確認する。
真冬の満月のように青白く輝くそのシルエットは、こちらに向かって北から南にジグザグ飛行しながらあっという間に頭上を飛び越えて行ってしまった。
間違いなくあの少女だった。が、地上にいるナオトは為す術なく見送るしかない。
「……速ぇな、あいつ」
しばらく呆然とホウキの軌跡を見上げてから、ようやく思い出したようにナオトは携帯電話を取り出す。そして警察に五回目の連絡を入れようとした時、もう一つの輝きが北のビル群の間から近づいてきていることに気付いた。
赤くギラギラと威嚇するその光は遠くから急降下して、帰宅途中の人々の視線を釘付けにしながら地上近くでなめらかに減速をしてみせた。そしてナオトの目の前で天から降臨した女神のようにゆったりと着陸する。店でホウキを見慣れたナオトでさえ百点をあげたくなるような、完璧な着陸だった。
ただし、その操縦者の服装を除いては。
「あなたが通報してくださった守屋ナオトさん?」
「え、ええ……まあ」
呆然とその姿を見ていたナオトは凛とした声にたじろぎ、強張った返事をしてしまう。
「私は実乃璃署の白鳥と申します。それで、犯人はどちらに?」
二つに束ねていてもなお肩にかかるほど長い黒髪をファサァ! と決めポーズのようにかき上げながら澄まし顔――ナオトと相対した少女は、なぜかゴスロリ魔法使いのコスプレをしていた。ナオトは思わず目をこすって二度見、幻覚でないことを確認する。
襟のヒラヒラした布地が目につくシャツに緩いフリルのスカートを履き、手元では白い手袋が輝きを放っている。そして足元は、やはりフリルの飾りのついたニーソックスに革のブーツでキメていた。さらに極めつけは、魔女の象徴ともいえる大きな鍔付きの三角帽子である。
その帽子に飾られた、祈石の織り込まれている赤いリボンこそが、パトカーのランプのような先ほどの赤い光の正体だったのだ。
「警察の方なんですよね? ……お若いですね」
ナオトは念のため、疑いの色を悟られないよう注意しながら確認する。
「本日よりこちらの島に配属になった、白鳥クロエと申します」
少女は瞳をまっすぐに向け、律儀にも再度名乗ってくれた。
生真面目そうな少女だ、とナオトは思った。だがいかんせん、服装が――
「……あ、秋葉原からの応援部隊ですか?」
言った直後、しまった、と思った。
思わず脳内の突っ込みを言葉にしてしまったナオトに、クロエと名乗った少女はピクリと動きを止めた。
「……っ、し、首都の本庁から来ました。ちなみにこの服は私の趣味ではなく、本庁から支給されたものです」
その少女は澄まし顔こそ崩さなかったが、小さな唇の端がピクピクと震えていた。わざわざ自分の趣味ではないと言うあたり、こちらの質問の意図、つまり「その格好はおかしいだろ」という気持ちを察したらしい。
「それが制服なんですか……大変ですね……」
同情しながらも追い討ちをかけるようなナオトの言葉に、少女は小さく俯いてしまう。その頬にはわずかに朱が差していた。
しかし彼女はすぐに顔を上げると、警察の威厳を取り戻そうとするかのように事務的な声音で「それよりも」と、姿勢を正す。

「犯人はどちらに逃げましたか? 服装などは覚えていますか?」
「そうですね、この大通りを……五百メートルくらい上空ですかね、中心街のほうに飛んでいきましたよ。 服装は派手なジャージと変なパンツで、あなたと同じくらいの歳の女の子でした」
「そうですか……了解しました。今後なにか追加の情報があれば、私へ直接お願いします」
そう言って、少女はナオトに自分の連絡先を教える。
「うちの最新機で逃げていきましたからね。警察の方でも追いつけるかどうか……」
猛スピードでかっ飛んでいった暴走少女を思い出して呟いたナオトに対し、目の前の彼女はカツリ! とブーツを鳴らしてなぜか一歩詰め寄ってきた。
そして、余裕の笑みで宣言する。
「ご心配なく。完璧な理論に基づいた訓練を積んだ私が、最新機とはいえたかが素人に負けるはずがありません」
*
クロエは再度ホウキに跨り、ひとまず上空から逃走犯の位置を確認することにした。
ナオトから「うちの商品にはなるべく傷をつけないように捕まえてくださいね」やら「あ、これも渡しておいてください」などと言われて今さら渡された試乗承諾書を、クロエは呆れながらも腰のポーチにしまった。ナオトは引き続き地上から追跡に協力するとのことだったので、彼と一旦別れたクロエはその場で上昇してビル群の上まで駆け上がった。
クロエは上空からビル群を見下ろしてみる。視界いっぱいに広がった高層ビルの夜景は無数の明かりに彩られていて、その最上部ではかがり火のように赤い航空障害灯のライトが明滅を繰り返している。いまだ建設中のビルの頂上では、巨大なクレーンがキリンのように所在なく立ち尽くしていた。
「これが、 『第二地平』……」
クロエの唇から、感嘆ともつかない呟きが漏れる。
この島を上から見下ろすと、無数のビル群がまるで地面からせり上がった地平線のように見えるために、実乃璃島の島民からそう呼ばれるようになったという。その光る大地はちょうど島の中心から八方向へ放射状に伸びる大通りによって、円形の島をケーキのように切り分けられていた。夜のため大通りは街灯や車やホウキの光などで一層くっきりと際立っており、クロエはその中に、周囲とは明らかに異質な速さと軌道で島の中心部へと飛んでいく光を見つけた。
「あれが逃走犯ね」
クロエはホウキを握り直すと、意識を再度集中させた。クロエの操縦意思がホウキ内部の祈石に伝達され、運動エネルギーへ変換される。彼女は腕の端末を口元に寄せた。
「こちら白鳥。時刻は十九時二十分より、被疑者の追跡を開始します」
そう戦いの始まりを告げるように署へ連絡を済ませると、彼女の愛機ハッツェンバッハは鋭く発進した。眼下の追跡相手を視界の端で確認しながら、クロエはビルのジャングルへと飛び込んでいく。祈石を織り込んだ帽子のリボンが、再び赤く発光し始める。
クロエは加速を続けながら、「警察です! 道を空けてください!」と周囲の市民に鋭く叫んでから最小限の回避行動をして、速度を落とさずに青白い光をなおも追跡する。ふいに強烈なビル風がホウキの動きを乱しても、さんざん訓練した成果かクロエは姿勢を素早く立て直すことができた。
前方の青い光との距離が縮まってくる。これならいける、と彼女は確信した。
やがて少女との距離は数十メートルほどまで近づいた。相手はまだ気付いていない。クロエは小さく息を吐いてから、ハッツェンバッハのグリップ部にあるスイッチを押し込んだ。ホウキに内蔵された速度計測器のセンサーが、速度超過を証明するために対象の捕捉を開始する。
しかし直後、少女はくるりと機体ごと体を上下に反転させたかと思うと、背面で急降下してクロエの視界から姿を消した。ブザーが不機嫌そうな音を立てて計測の失敗を告げると同時に、視界の正面に大きな鉄塔が立ちはだかる。
少女に気を取られていたクロエは、はっとしながらも機体を捻って自らも下方へ急旋回し、鉄塔から突き出た無数のアンテナをなんとか回避した。彼女の背中をわずかに冷たい汗が流れ落ちる。
いつのまにか、島の中心へ到達していたのだ。
この島の中心には「ツリー」と呼ばれる巨大な電波塔がある。
ビル群よりも高くそびえ立つこのツリーは、太い幹のような巨大な鉄塔から無数のアンテナが枝分かれしながら側面へ突き出している。巨木のようなこの塔のシルエットは、高層建造物の多いこの島でビルの隙間を縫って電波を届けるため考案された構造だった。
実乃璃島全体の通信回線を一手に引き受けているこの人工の大樹は、同時に街のシンボルでもあった。 冬の期間中はツリーを彩るイルミネーションの電球が街の中心を照らしており、人々で賑わう中央広場を華やかに輝かせている。
クロエが追跡中の少女は、そんな人混みのど真ん中に対地ミサイルのような迷いのない軌道で突っ込んでいく。クロエも少女を追うため加速するが、少女は地面にぶつかる直前で機首を水平に持ち上げながら前方へ滑るように加速し、周囲に衝撃波じみた突風を撒き散らして地上すれすれの所を飛んでいった。
後を追っていたクロエは地面に激突しそうになるも、地上十センチのところでなんとか停止する。すぐさま彼女は地面をブーツで蹴り、前傾姿勢で再加速した。
二人の巻き起こした風が周囲の人々の帽子や鞄を吹き飛ばし、道の隅に溜まっていた冬枯れの落ち葉を嵐のように巻き上げた。前方にいた人々は次々に悲鳴を上げ、雑踏はふたりを避けようと左右に割れていく。
そんな人混みの隙間を稲妻のようにすり抜けながらも、クロエはあくまで冷静だった。自身の跨るホウキの側面から伸びている小さな金属レバーを手前に引くと、機体の中央に細長い穴が顔を出した。次に腰のポーチから、片方の先が尖った小さなカプセルを取り出す。
ちょうど指ほどの太さのあるライフルの弾のようなそれを、クロエは先ほどの細長い穴に叩き込んでレバーを元に戻す。そして手元のトリガーをいつでも引けるよう指を掛けてから、
「止まりなさい!」
クロエは前方の少女に向かって叫んだ。思えば、声を掛けたのはこれが初めてだった。
少女は速度を緩めこそしなかったが、少し驚いた風にこちらを振り返った。
初めて少女と目が合う。ナオトからの情報のとおり、自分と同じ歳くらいのようだ。
少女はきょとん、とした様子でクロエをしばらく見つめていた。それから急に何を思ったか、ぱあっと明るい表情になる。ちょうど、新しいおもちゃをもらった子供のような無邪気な笑顔だった。
クロエはなぜかその笑顔が気に入らず、次に用意していた言葉をとっさに叫ぶ。
「止まらないと撃つわよ!」
しかしクロエの剣幕にも少女は動じず、むしろ口の端をにっ、と吊り上げて小さく笑った。クロエはその挑発的な態度にぐっと奥歯を噛み締めると、ハッツェンバッハの機首を少女に定めて手元のトリガーを引いた。
その瞬間、火薬の爆ぜる音と同時に鋭い反動がクロエの体に伝わり、同時にホウキの先端から先ほどの弾丸型のカプセルが発射された。カプセルはまっすぐ前方の少女に向かって飛んでいき、しばらくすると空中で弾けるように分解した。
分解したカプセルから飛び出してきたのは捕縛ネットだった。覆い被さるように迫ってくる網を見て少女はようやく「げっ」という表情になり、慌てて垂直に急上昇する。
捕縛ネットはそのまま空を切り、中央広場の端にあったハンバーガー屋の店先に立つピエロ人形の像をむなしく捕らえた。
クロエは小さく舌打ちして、少女のあとを追う。上昇しながら次弾装填のためにレバーを再び引くと、カプセル弾の空薬莢がカシャリと排出されて夜の街明かりに吸い込まれていった。
そんな空中戦が始まってから十分ほど遅れて、ナオトはツリーのある中央街へようやく到着した。途中で合流したスノウが、バイクの後部シートでナオトの背中にしがみついている。
「……着いたぞ、スノウ」
停車後も抱き付かれているせいでバイクから降りられないナオトが、呆れたように言った。ヘルメットを脱いで後ろを振り返ると、スノウはいまだに目をぎゅっと瞑って小動物のように震えていた。スノウをバイクに乗せるのは通勤で毎日していることなのだが、再起動のそれと同じく、やはり慣れないらしい。
ナオトは小さく肩をすくめると、 「スノウ」と、もう一度諭すように呼びかける。
「お前の言ってた場所に着いたけど、ここでいいのか?」
ナオトの呼びかけにようやく反応したスノウは、ぱっと目を開いた。そして自分がナオトに抱き付いていることを自覚すると、顔を赤らめながら慌てるように身を離した。
勢い余ってバイクから転げ落ちてしまった彼女は、恥ずかしさのせいかものすごい速さで立ち上がると「そ、そうですっ! わたしが検索した『実況』によると、ここで間違いないです!」と直立不動で答える。ナオトはそんな彼女の滑稽さに吹き出しそうになったが、なんとか噛み殺していまの醜態を見なかったことにした。わざわざ着いて来てくれたスノウに意地悪をするのはさすがに気が咎めたのだ。
「そうか。じゃあ念のためにもう一度調べてみてくれ」
「はいっ! 無線ネットワークに接続して、ニュース、日記、掲示板やその他情報を検索してみますね」
ふいに自信たっぷりの表情になったスノウを見て、ナオトは首を傾げる。
「……なんだか妙に説明口調だな」
「だって、機能をアピールしたいじゃないですか。旧式でもこれくらいはできます! って」
そう答えたスノウは目を閉じて両手を組み、祈りでも捧げるような姿勢で「むむむ……」と唸り始めた。やがてそれらしい情報を見つけたのか、何かを閃いたかのように目を見開く。
「『拡散希望! 中央広場の上空に、すげえ速さのホウキが飛んでる!』」
「うおっ」
いきなり口調が変わったスノウにナオトは面食らってしまう。しかしこれは単に、ネット上の書き込みをそのまま読み上げているだけだったことを思い出す。
『警察? のホウキが追跡してるみたい』
『なんかパトカーも来たっぽい』
『だれか中継動画上げてくれよ』
『うちのマンションの窓のすぐ外を飛んでったぞー』
スノウの声ではあるものの言葉遣いはまったく他人のそれで、早口の独り言のような検索結果が次々と報告されていく。
「やっぱりまだ捕まってないみたいだな……場所はここで合ってるみたいだけど」
ナオトは周囲を見渡す。応援に駆けつけた五、六台のパトカーの中から警察らしき男たちが飛び出し、包囲網を作ろうと街の中を走り回っているのが見える。警察が駆けていった方角の空を見上げると、ツリーのアンテナの間を縫うように飛ぶ二つの光が見えた。
「あんな危ないところ、よく飛べるな……って、あれ?」
「どうかしましたか?」と通信を解除したスノウがナオトに尋ねる。
ナオトが「なんだ、あれは?」と指し示してみせたのは、二つの光から少し離れたところを飛んでいる新たな影だった。
人間より少しだけ視力の高いスノウが、じっと目を凝らして呟く。
「あれは……ヘリコプター?」