
記憶の箱庭
すべての癒えることのない悲しみに捧ぐ。
ふと、スマホを見つけて、誰かからの連絡を待っている瞬間がある。
いつまでも、直らない僕の悪い癖だ。
背中に、なにかがぶつかる衝撃で我に返る。
ふり向くと、サラリーマンの男が顔をしかめながら、さっさと僕を追い抜いていった。
気付けば、赤信号は青に変わっている。
周囲には、そぞろ歩く鳩をのぞけば、僕だけがとり残されていた。
気恥ずかしさで頬が熱くなったけど、ビルの隙間を吹き抜ける風がすぐにそれを忘れさせてくれる。
12月の東京は、心が凍えるほどに寒い。
僕はコートの襟をかき合わせ、首を縮めるように歩きだした。
冬という季節は鈍色の空が街へ垂れこめたように、なにもかもが色褪せて目に映る。
駅前を華やかに彩る、少しだけ気の早いクリスマスのオブジェも味気ないものに感じた。
やっぱり、僕はこの季節が嫌いだ。
肌を切るような風にさらされるたび、心にぽっかりと空いた穴を感じてしまうから。
すると、ポケットの中で握りしめていたスマホが震えた。
救助を待つ遭難者みたいに、僕は慌てて確認する。
――志温、お仕事終わった?
弾け飛びそうなほどふくらんでいた期待が、俄かにしぼんだ。
それに対して、罪悪感を覚える。
このメッセージをくれた人も、僕にとってかけがえのない存在なのに。
アプリを開くと、アイコンと一緒に名前が表示された。
桜井栞――ずっと、昔からお付き合いをしている大切な人だ。
メッセージを返す。
――終わったよ。今、帰るところ。
――ほんと? 珍しいね。えらくなったばっかりなのに。
栞のいう通り、昇進してから僕は慌ただしい毎日を送っていた。
空が明るいうちに会社をでるのは久しぶりのことだ。
電車にゆられながら、栞とメッセージを交わしているうちに自宅の最寄り駅へ辿り着く。
新しくオープンしたジムのチラシ配りを断り、近所のスーパーに入った。
手がふさがると不自由なので、栞とはハンズフリー通話に切り替える。
こういう時、無線イヤホンは便利だ。
「栞は、夕ご飯なに食べたいとかある?」
「うーん、お肉よりお魚って気分かな」
精肉コーナーで、二人分の鶏肉をかごに入れる。
「お酒は?」
「ワインがいい」
「わかった」
そう答えながら、缶ビールをかごに放りこんだ。
買い物を済まして、いつもの家路を歩いていく。
あの公園を左に曲がれば、僕が住んでいるマンションが見えてくる。
「もうすぐ、着きそうだよ」
「そっか。それじゃあ、楽しみにしてるね――クリスマス」
「任せて。栞がリクエストしてくれたお店、探してみる」
僕たちが話しこんでいたのは、クリスマスのディナーについてだった。
別れの気配を察して、栞が言葉をすべりこませてくる。
「ねぇ、志温?」
「なに?」
「志温にとって、一番大切な人は誰?」
「また、それか」
「いいじゃない。たまには、さらっと口にしてキュンとさせてよ」
電話越しでも、栞が不満そうな顔をしているのがわかった。
もう何年間、こんなお馴染みのやりとりをしてきただろう。
この質問は、栞の得意技だ。
デートの時や、電話をした際には必ず問いかけてくる。
そうはいうものの、好意を真っ直ぐに表現するのはいつまでも慣れなくて、いまだに口ごもってしまうのだけど。
「もちろん、栞だよ」
「よろしい」
栞のうれしそうな声を耳にすると、僕まで満たされた気持ちになる。
「私にとっても、志温は大切な人だよ」
「ありがとう」
「じゃあね。イブまで風邪を引かないように」
「うん、気を付ける」
そのやりとりを最後に、通話を切った。
そして、辿り着いた自室のドアへ鍵を差しこむ。
スーツから部屋着に着替えて、すぐ夕食づくりにとりかかった。
キッチンへ立った僕は、買い物袋から食材をとりだす。
二人分の鶏肉、二人分のサラダ、二人分の調味料。
キッチンにしか明かりがついていない薄暗いリビングで、油を引いたフライパンが鶏肉を熱する音が響く。
一人で暮らすには広すぎる部屋には、その他の物音は一切しない。
静物の絵画の世界のように黙りこくっている。
きつね色になっていく鶏肉を、虚ろな目で見つめる。
やがて、焦点がぼやけて、溶けた輪郭と色味だけが網膜に張りつく。
まどろむように鈍る思考を、炊飯器のメロディが叩き起こした。
調理が終わって、料理を盛りつける。
棚からとりだした皿は二枚だった。
そして、盛りつけが終わるとリビングのテーブルへ歩を進め、ランチョンマットを向かい合うように配膳をする。
すべての準備を済ませ、テーブルに着いた。
「いただきます」
一人きりの室内に、僕の声だけが寒々しく響く。
怖いくらいの静寂に耳をすました後、箸をもって食事にとりかかった。
黙々と、夕食を口に運ぶ。
正面のランチョンマットにおいた皿は、湯気だけがたちのぼっている。
料理が減ることはない。水を入れたグラスも、氷が溶けて汗をかくばかりだった。
僕の対面には誰もいない。
その向こう側にある、いつ買ったかも忘れてしまったキャラクターのぬいぐるみが、薄暗いリビングから僕を憐れむように見つめていた。
自分でも、わかっている。
おぞましい儀式のように、僕が繰り返している行為が異常だということくらい。
でも、どうしてもやめられなかった――誰かが、お腹が空いたと泣いてしまいそうで。
仕事もプライベートも順調なのに、謎の飢餓感は不治の病のように進行していく。
それなのに、奇妙なことに自分自身がなにを欲しているのかわからないのだ。
だからこそ、この渇きは満たされない。
もし、この年になってクリスマスプレゼントをもらえるのならば――
僕は、僕自身の心を知りたい。
年末進行の慌ただしさに翻弄されているうちに、クリスマスイブがやってきた。
それでも、栞がよろこんでくれそうなレストランの予約はとれたのだから、僕にしてはうまくやった方だろう。
ただドレスコードがあるから、今日は朝から身支度で大忙しだった。
――飲みにいかないか?
友人の結婚式以来、クローゼットの肥やしになっていたスーツに袖を通した僕は、スマホにそんなメッセージが入っていることに気付いた。
僕の交友関係はお世辞にも広くないから、イブに誘ってくる人物といえば一人しか思い浮かばない。
予想は的中していた。
連絡をくれたのは、藤沢海人だったのだ。
僕と海人はいわゆる幼馴染という間柄で、東京に就職した後もずっと交流が続いていた。
ちなみに、栞も海人と同じ地元の出身だから、二人はとても仲がいい。
だから、こんなつれない返事がくることもわかっていたはずなのに。
――悪いけど、栞とデートの予定が入ってるんだ。
――だよな。
――カップルにイブの予定を聞くなんて、心が鋼でできているとしか思えないけど。
――まぁ、シングルには効くな。
嫌味のない返事がやってきて、海人のトレードマークというべき夏空のようにからっとした笑みが頭に浮かんだ。
海人は名前の通り海のように大らかな性格で、僕よりずっと社交的だ。
ルックスだって、最近の爽やかなスポーツ選手みたいに整っている。
――それは冗談として、志温と栞がうまくいっているかと思ってさ。
――いよいよ、どの立場にいるの、海人は?
――いっておくけど、二人の結婚式のスピーチで号泣する友人枠はゆずらないからな。
そんな枠、初めて聞いた。
――ありがたいけど、海人には自分の将来を一番に考えてほしいな。
――俺のことは、二人の幸せを見届けてからにするよ。
その言葉通り、海人は僕と栞がうまくいくようにいつも見守ってくれていた。
喧嘩をした際には、よく仲裁に入ってくれたっけ。
たまに熱心すぎて首を傾げることもあるけど、海人がいなかったら栞と順調に関係を深めてこられなかったと思う。
――ありがとう。いつも、僕たちを気にかけてくれて。
――いいって。ところで、プレゼントは用意したんだよな?
――さすがの僕も忘れないよ。
――ついに、渡すんだな。
僕はテーブルの上においてある濃紺の化粧箱に視線をやった。
心を落ち着かせるように一旦、スマホをおく。
そして、姿見の前に立ってネクタイをしめた。
鏡に映った自分の目が、ちゃんと覚悟を帯びていたことがうれしかった。
出かける準備を済ました僕は、再びスマホを手にとる。
――今夜、栞にプロポーズする。
――あぁ、決めてこいよ。
最小限のエールが、むしろ僕の背中に追い風を吹かせてくれた。
バッグに化粧箱を忍ばせ、クリスマスイブに浮かれる街へと繰りだした。
電車を乗り継ぎ、目的地の駅へ降りた。
カップルとイルミネーションで華やぐ駅前を抜けると、美しく緑地化された川沿いを進む。
このエリアは近くにある大学の敷地で、一般にも開放されている自然公園だ。
スマホが表示したマップには、ここを抜ければレストランへの最短距離だと告げている。
栞との待ち合わせ場所までは、まだ距離がある。
足を速めると、大きな道路へ突き当たった。
片側で三車線もある、とても交通量の多い道だ。
繁華街から離れた閑静な一帯で、信号も少ないせいなのか車の速度がやけに速い。
歩道を歩いていると、隣から耳をつんざくような走行音が響いて怖いくらいだ。
実際に、事故も多いと聞いていた。
横断歩道を見つけて、僕は慎重にそこを渡った。
すると、やせ細った屍のように枝を伸ばす木立に抱かれた石段が目につく。
どうやら、公園の奥に続く小道のようだ。
用もないはずなのに、自然と足がそちらへ向いた。
栞のもとへ向かわなきゃいけないのに、なにをしているんだ――頭を過った疑念も、木枯らしにかき消される。
小道を進んでいくと、庭園に辿り着いた。
きっと、夏の盛りには、緑にあふれているんだろう。
だけど、今は乾いた風に落ち葉が舞う、心まで寒々しくなるような光景が広がっていた。
立っているだけで凍える気温のせいで人の姿はない。
そんな世界から忘れ去られたような空間に、ベンチを見つけた。
薄く積もっていた塵をはたき、なんの疑問もなく腰かける。
日暮れに向けて冷えていく空気と反比例して、僕の肉体は奇妙な熱にとり憑かれていた。
熱さにたまらなくなって、マフラーをほどく。
なんだ、これは。
五感が、外の世界を知覚することをやめてしまう。
死にきれなかった亡霊のようにたちのぼった一つの思念が、頭の中を占拠する。
――ここで、待たないと。
その瞬間、ベンチは僕の肉体の一部となった。
世界が滅ぼうが、ここを動くつもりはない。
真冬の夕暮れは瞬く間に終わり、あたりは容赦なく暗くなっていく。
途方に暮れるように佇む街灯は、壊れているのか明かりはつかない。
僕は闇に塗り潰されていく。
名前も顔も知らない誰かを、たった一人で待ちわびながら。
夜と肉体の境目がわからないほどの暗闇に沈んでから、どれくらい経っただろう。
僕の目にはなにも映らないし、耳にはなにも響かない。
まるで、土くれにでもなったように。
もし、本当にそうなれたら、どんなに幸福なことだろう。
ただの土なら、誰にも邪魔されず永久にこうしていられるから。
もはや、目を開けることさえ億劫でまぶたを落とそうとした――その時だった。
「――やっぱり、ここにいた」
透き通った声がして、地面に落ちていた視線をもちあげる。
僕が座るベンチの前には、悲しい目をした女性がいた。
肩口まであるほどのボブカットに包まれた顔は、驚くほど小さい。
可憐な顔立ちからは、どこか儚げな印象を受ける。
コートの上からでもわかるくらい華奢で、大切にあつかわなければと思わせる繊細さがあった。
だから、あの手を握る際は、いつも注意深くなる。
真夜中の庭園に姿を現したのは栞だった。
その姿を目にした瞬間、現実が一気に流れこんでくる。
人間らしい思考が戻ると同時に、戦慄が奔った。
腕時計に目をやる。
レストランを予約した時間から、すでに3時間が過ぎていた。
自分の顔から血の気が失せていくのがわかる。
「栞、ごめん……」
動揺のせいで、錆びた弦のようにかすれた声がもれた。
深刻な顔で佇んでいた栞は、やがて、僕の隣へ腰かける。
そして、真冬の張り詰めた空気に、白い息を吐きながら――
「いいよ。志温の身になにもなくてよかった」
栞の顔が妙に晴れやかなことが意外で言葉を失う。
今夜、僕がしたことは、頬を打たれても文句のいえない最低な行為だったのに。
「……でも、どうしてここがわかったの?」
「どうしてだろうね」
先の見えない闇を見つめながら、栞は独り言のようにつぶやいた。
「志温の魂が縛られているのなら、ここかなって」
栞の言葉は詩的すぎて、僕の疑問を解消してくれなかった。
また、問いかけを重ねそうになっている自分に気付いて口をつぐむ。
どうして、こんな場所で誰かを待っていたのか――そう栞に質問されたら、答えられる自信がなかったから。
なにより、僕は真っ先に非礼を詫びるべきだ。
「……レストラン、一緒にいけなくてごめん。すごく楽しみにしてくれていたのに」
「うん、それはとっても残念だった」
唇をすぼめながら、栞は素直に気持ちを打ち明ける。
「カップルがあふれる中で、二人分のディナーをやけ食いして帰ろうかと思ったもん」
そこまで告げると栞はむくれ顔をやめて、冗談っぽく笑いかけてくれる。
栞の気遣いには、いつも救われてばかりだ。
この優しさに、僕は報いることができているのだろうか?
僕も、そして時折、暴力的な衝動によって僕でなくなるような自分自身も、栞を不幸にしているようでいたたまれなくなる。
「本当は、プレゼントを渡したかったんだ」
「へー、えらいじゃん」
空気が重くならないように、あえて、栞は軽い調子で受け合ってくれた。
「とても大切なもの。僕の人生には間違いなく影響するし、もしかしたら、栞の人生にも影響するもの……だと思う」
僕は、化粧箱が入ったバッグに手をやる。
なにかを察したのか、栞はおどけた仕草をやめてマフラーに顔をうずめた。
そして、一言だけこぼす。
「……うん」
「でも、渡すのが怖くなってしまった」
その瞬間、栞のきれいな顔に亀裂が入ったようだった。
「僕のせいで、栞の人生を狂わせるんじゃないかって……」
ずっと、胸中にわだかまっていた感情だった。
きっと、僕はまともな人間ではない。
思いの丈を吐露すると、肺が灼けるように熱くなり切迫したものがこみあげてくる。
次の瞬間、ひんやりした手のひらで、顔をぎゅっとおさえこまれた。
そして、意思を感じる力によって、逸らした視線が正される――黒真珠のように、澄んだ栞の瞳へと。
「それ以上、言葉にしたら本当に怒るよ?」
栞は僕の目を見つめて、肉の奥にまで響かせるように声を放つ。
「プレゼントは志温の気持ちが固まってからでいいよ。その代わり、一つだけ答えて」
「……なに?」
「志温にとって、一番大切な人は誰?」
二人の間では、おまじないのようになっているやりとり。
まるで、どうしても確かめなくてはならなかったように、栞は瞬きも忘れて答えを待っている。
自分自身へ問いかける。
栞がいなければ僕は白昼夢に魂を奪われ、現実からはがれ落ちていただろう。
本に挟みこむしおりのように、同じ名をもつ彼女を目印にして僕は帰る場所を見つけることができる。
だから、答えは変わらない――栞は、僕にとってかけがえのない人だ。
それなのに普段、脳の動かしていない部分が疼きだす。
まるで、奥側からノックするかのように。
そんな妙な感覚をふりきって僕は告げた。
「もちろん、栞だ」
「よかった」
その瞬間、栞は波間に救助の船を見つけたように安堵した笑みを浮かべた。
僕は、栞の内側に去来した感情の移ろいをわかってあげることができない。
そして、この儀式の意味合いさえも。
「今は、それで十分」
栞は心配事が吹き飛んだとばかりに、清々しく伸びをした。
それなのに、僕の気持ちは鉛のように重いままだ。
時折、見失ってしまう魂の所在や、前触れもなく襲ってくる喪失感がどこからやってくるものなのか――僕の知りたいことは、なに一つ明らかになっていない。
この爆弾を抱える限り、今夜みたいなことが必ず繰り返される。
そんな確信が、僕を憂鬱にさせる。
だけど、栞は待ち構える困難を全部見ないふりするように――
「帰ろっか」
気付けば、真夜中に青白い光をまとう手が差しだされていた。
僕は少し迷った末に手を握る。
その指に、少なくとも今夜は婚約指輪は輝かない。
それでも、栞は幸せそうにはにかんだ。
「イルミネーションでカップルを嫌っていうほど見たから、甘えたくなっちゃった。覚悟してね?」
「あぁ、失態をカバーできるならいくらでも」
「コンビニに寄って帰ろ」
「うん。ケーキあるかな?」
「あるんじゃない? 売れ残って、うんと安くなっているのが」
「ごめんね。こんなクリスマスを過ごさせてしまって」
「まったく、志温はなにもわかってないなぁ」
呆れ顔をつくったと思ったら、唐突に気弱な言葉をもらす僕の唇はふさがれた。
つま先立ちをして、栞がキスをしてくれたのだ。
「メリークリスマス、志温」
愛おしげに栞は告げる。
呆気にとられていた僕も、すぐ声にすべき言葉が見つかった。
「メリークリスマス、栞」
いつか最愛の人に、なんの憂いもなく指輪を渡せるように。
だから、どんなに怖くても、この体に起きている異変に向き合わなくては。
目についた冬空に輝くオリオンの三連星にそう誓って、僕は歩きだした。
お正月があっという間に過ぎ去って、日常が帰ってきた。
憎らしいことに、仕事は休み明けの僕の気分なんて考えてくれない。
今日も僕は終電間際の電車にすべりこみ、うたた寝をコントロールしながら最寄り駅で目を覚ました。
こんな時間だから、駅前は人がまばらだ。
お店も、すでに明かりを落としているところがある。
気温と相まって寂寞とした景色がそうさせるのか、僕は体を丸めながら家路を急いだ。
怖いくらいに、月が冴え冴えした夜だった。
白い息を吐きながら、触れたら血が流れてしまいそうだなと空想する。
だから、地上の出来事に気付くのが遅れてしまった。
向こうの電柱で突如、白いもやがゆらめいたのだ。
最初は、ボヤ騒ぎの煙かと思った。
でも、違った。煙かと思っていたそれは発光し、やがて、ゆっくりと人の輪郭を象った。
幾度の瞬きを挟んで目の前に佇んでいたのは、浮世離れした雰囲気のある男だった。
中世的な顔立ちは、僕を見るなり慈悲深く微笑む。
異常な状況なのに、引き返そうという気にはならなかった。
多分、僕は彼から迸る神性に魅了されていたのだ。
「――やぁ」
古い友人と交わすような呼びかけだった。
身に覚えのない僕は面食らうしかない。
「あ、あの、人違いじゃ……?」
「そんなわけないじゃないか」
にこやかにそう答えると、謎の男は意味深に周囲を見やった。
その視線を追うと、帰宅途中と思しき女性が不審な目で僕をじろじろとながめている。
そのせいで前方不注意になり、謎の男とぶつかりそうになっていた。
「なっ……!!」
次の瞬間、潰れた虫のような声がもれる。
男の体を、女性がするりと通り抜けていったのだ。
まるで、実体のない存在であるかのように。
謎の男は、手品を披露したマジシャンのように得意げな表情を浮かべた。
「ほら、他の誰の目にも映らない。君にしか用がないからね」
「あなたは、一体……」
「神でも、精霊でも好きなように呼べばいい。人間の価値観に合わせて会話をする気になれないんだ」
初めから理解を期待していないとばかりに、謎の男は話を押し進める。
物腰こそやわらかいけど、僕のことをとるに足らない存在としか認識していない――そんな、傲慢さをひしひしと感じた。
「君は、虫食いのような魂をしているね」
「え?」
「歪な空白を埋めたくて、ピースを探しさまよっている――そんな風情だ」
今まで誰にも明かしたことのない渇きを指摘され、ふらつくほどの衝撃を覚える。
僕をたぶらかす悪魔なのか、救いの手を差し伸べる天使なのか判別がつかない。
ただ、痛いほどわかるのは――この男は人間の理解のおよばぬところにいる存在だということだ。
「……だとしたらなんです? あなたには関係ないことでしょう」
「そんな警戒しないでくれ。君からしたら、僕は幸運の使者なんだからさ」
朗らかに告げながら、男はゆったりとした白の衣装からなにかをとりだした。
それは、小瓶だった。
月から滴った雫のように、中は冷たい輝きを放つ溶液で満たされている。
「君が今、なによりも望んでいるものをあげよう」
「望んでいるもの……?」
謎の男は頷きながら、小瓶をふって中の溶液を鳴らした。
「これは、君の在り方を決められる薬。無数の記憶の中から一つ一つを選別して、思いだしたいものをとどめ、忘れたいものだけを消し去ることができる。いうなれば、君の内容物を自在に再構築できるのさ」
「そ、そんな都合のいいものあるはずが――」
頭では否定しているのに、謎の男の言葉が耳について離れない。
「ずっと、半身を失ったような感傷に悩まされてきたんだろう? 深く記憶の海にもぐって、君を悩ませる空白を満たす宝を探すのもいい。忘れたことを忘れることで、心の安寧をもたらすのもいい――すべては、君の思うがままさ」
謎の男から値踏みするような眼差しを向けられる。
多分、僕は重大な選択を迫られている。
あまりに現実離れしていて夢でも見ているような気分だけど、僕を蝕む症状も同じくらい常軌を逸しているのだ。
現実世界でとり得る手段では解決できない――薄々、そんな気がしていた。
だからこそ、自分でも意外なくらい早く腹が決まったのだろう。
「……それ、何味ですか?」
「なんだって?」
「僕、お酒はあまり飲めない性分で。アルコールじゃなきゃいいんですけど」
そこで、謎の男は小さく微笑んだ。
「聞いていた通り、なかなか面白い人間だね、君は」
「なんです?」
「なんでもない。こちらの話さ」
うっかりと口をすべらせてしまった――そんな反応だった。
「どうせ、口にすれば死ぬと警告しても、飲み干すつもりなんだろう?」
「そうなんでしょうね。こんな、うさんくさい話に耳を貸している時点で」
「古来から、無謀さは英雄の条件さ。そして、神話の世界では、英雄こそが欲するものを勝ちとってきた」
「志半ばで散っていった人の方が多いんでしょうけど」
「仮にそうなった場合、僕が抒情的に語り継いであげよう。あまりに永く生きていると、余興に苦労するものでね」
謎の男は、初めて生の感情をさらけだしたように口を裂いて笑った。
この人は、僕を助けようなんて思っちゃいない。
ただ、抗いがたい運命に直面した非力な生物が、どんなふうにもがくのかを観察したいだけなのだ。
でも、それで構わない。
これが狡猾な罠であれ、僕には他に縋るものはないのだから。
相変わらず、あやしい視線を向けてくる謎の男から小瓶を受けとる。
容器の中の液体は、水銀のようにかすかなとろみがあった。
ふるえる指で、小瓶の封を開ける。
宙にかざすと月光を受けて、銀河を内包しているように輝いた。
「どうぞ、ご賞味あれ」
挑発するような調子を孕んだ、恭しい男の声。
小瓶を口に近づけて、ゆっくりと傾けていく。
覚悟を決めたはずなのに、容器の首に伝ってくる雫を目にすると恐怖心が芽生える。
僕と、栞と――それから、僕たちのこれからのために。
一思いに、小瓶をあおぐ。
瞬間、妙な感覚に襲われる。
魂が肉体からはがれて、宇宙を奔る閃光のように遠のいていく。
もう、意識を保っていられない。
奥底からこみあげてくる、暴力的なまどろみに身を委ねる。
最後の瞬間、目に焼きついたのは凶器のごとく鋭い月だった。
まさか、人生で漂流したような気分を味わうとは思わなかった。
ただし、僕が辿り着いたのは無人島などではなく――
「な、なんだここは……?」
ひどい倦怠感を引きずるようにして体を起こす。
目の前に果てしなく広がるのは、ビロードのような乳白色の海原。
この世のものとは思えない光景に圧倒されてしまう。
その時、猫がそぞろ歩いたように、白亜の水面が波打った。
反射的に目を凝らす。
背景からふわりと浮かびあがったのは、純白のワンピース。
そして、それをまとうのは一人の女の子だった。
素足がミルクの水面に触れるたびに、幾重もの波紋が生まれる。
そうやって、女の子は無邪気な小鹿のようにこちらへ近づいてくる。
「――目が覚めたんだ」
女の子は、すずらんがほころぶように笑いかけてくる。
なぜか、とても懐かしい気配がした。
そして、説明のつかない感情の連続に戸惑う僕に、彼女は颯爽と告げたのだ。
「記憶の箱庭へ、ようこそ」
あれから、僕は女の子に導かれるまま後をついていった。
白に支配された空間にあって、強烈なコントラストを描く黒髪はご機嫌に跳ねている。
運よく案内人には出会えたわけだけど、ふくらむ疑問を放置するわけにはいかなかった。
「あ、あの、ちょっといいかな?」
「なに、お兄さん?」
見ず知らずの、しかも、こんな不可思議な場所で出会った女の子にお兄さん呼ばわりされるのは妙な気分だけど、そんなことを気にかけている場合じゃない。
「ここは、どういうところなの?」
気が遠くなるほど、白で塗りつぶされた空間を見渡しながら問いかける。
少女は優雅なターンを決めるようにくるりとふり返り――
「さっきもいったじゃない。記憶の箱庭だって」
それだけいうと前に向き直って、ずんずんと進んでいく。
ちっとも説明になっていなくて、僕は苦笑いせざるを得ない。
すると、少女はおもむろに手のひらを横にやった。
なにもない空間からすずらんの輪郭が浮かびあがり、指先に撫でられた拍子にゆれる。
いつの間にか、僕たちは広大なすずらん畑に抱かれていた。
唖然としながら見回した後、前に向き直ると少女がいたずらに成功した子供のような笑顔を浮かべていた。
「記憶の箱庭はね、訪れた人の記憶をスクリーンみたいに映しだすんだ。だから、濁りのない白で満たされているの」
「へ、へぇ……」
常識や固定観念が理解を拒むけど、実演されてしまえば信じないわけにはいかない。
たしかに、このすずらん畑には脳がうずくほど既視感があった。
鼻先をくすぐる、清い花の香りも。
なにかを思いだせそうな気がする。
それなのに、具体的な記憶には一つも結びつかない。
「それで、君はここの責任者?」
「なんか大人っぽい言い回しだね」
「大人なんだ」
「そうは見えないけどな」
「心外だな」
少なくとも目の前の女の子よりは、よっぽど人生経験を積んでいる自信がある。
「私は、お兄さんの旅路に寄り添う案内人っていったところかな」
「案内人、ね」
嘘をいっているようには見えない。
人をだますには、彼女はあまりに澄んだ目をしている。
「じゃあ、これから長い付き合いになるのかな?」
「それは、お兄さん次第。旅の長さは、その人が決めるものだから」
「だったら、呼びやすいように君の名前を教えてくれない? 僕の旅は、大半が予定通りにいかないから」
少し、ナンパっぽかったかなと反省する。
だけど、女の子は特に気にした様子もなく答えた。
「それじゃあ、すずらんで」
「わかった。すずちゃん――これでいい?」
「ちょっとキモいけど、いいよ」
それって、よくないのでは……?
この年頃の女の子の気持ちというのは、僕では理解できそうもない。
人知れず僕が傷ついていると、すずはぴたりと足をとめた。
本当に、この空間は摩訶不思議だ。
いつの間にか、僕たちはロンドンの格式あるホテルの客室のような場所にいた。
スタンドミラーに目をやった瞬間、ぎょっとして声をあげてしまう。
鏡に映る僕の背丈や、手足はひどく縮んでいて――有り体にいえば、子供に戻ったような姿だったのだ。
「なんだ、これ!?」
「さっきの聞こえてなかった? 大人には見えないって」
些末なことだというように、すずにあしらわれる。
「今のお兄さんは、空っぽの器みたいな状態なの。自分自身を、一からつくり直すために」
「だから、子供の姿に?」
「記憶の箱庭では、姿形なんて大した問題じゃない。大事なのは、最終的にどんな自分に生まれ変わるかだから――ここにくる前に、そういわれなかった?」
「そうだったかな……。悪いけど、よく覚えていないんだ……」
空っぽのお菓子の箱をゆするように、頭へ手をやる。
そんな調子の僕を、すずは爛々とした猫のような目で見つめた。
「じゃあ、頭の整理、手伝ってあげよっか?」
「手伝う? なにを?」
僕の問いかけも構わず、すずは言葉を続ける。
「お兄さんの名前は?」
「……安曇野志温」
「大切な人たちのことを、思い浮かべることはできる?」
いわれるがまま試してみる。
真っ先に栞と海人という名前が、頭の中の空白にぼんやりと浮かびあがってきた。
ただ不思議なことに、彼らとの具体的な記憶がなに一つ思いだせない。
ラベルを貼られたボトルはあるのに、その中身だけ盗まれたような――そんな不可思議な感覚だった。
これが、すずが口にした空っぽの器という状態なのだろうか?
「誰か、お兄さんの中に残っていた?」
「幸せにしたいと思った恋人と、親友がいた気がする……」
「うん、うん」
すずは、患者の言葉に耳を傾ける医師のように小刻みに頷く。
「他には?」
「他は――」
なにもかもあやふやな頭の中で、一つだけ力強く脈を打つ意志があった。
それは、僕が現実を投げ打ってまで、異界にやってきた理由――いつの間にか、弾痕のように刻まれていた喪失感の正体を知りたくて、安曇野志温はここにいるのだ。
でも、この使命は本人だけが知っていればいい。
「他には、なにも……」
「そっか。でも、なにも心配いらないよ、お兄さん」
なぜか、すずは満足そうに言葉の端を躍らせた。
「無理に思いださなくてもいいの。本当に大切な記憶だったら、ここで巡り合えるから。それらを拾いあげて編んでいけばいい――お気に入りの貝殻で、アクセサリーをつくるみたいに」
すずの言葉が合図となったように、記憶の箱庭に異変が生じる。
まるで、巨木の幹の内部から何万年の経過をながめているように、ホテルの内装がめきめきと音を立てて移ろっていくのだ。
やがて、目の前に現れたのは青、黄、赤に塗り分けられた三つの扉だった。
「こ、これは……?」
「この三つの扉の先には、お兄さんから抜け落ちた記憶が待っている。うれしかった出来事や、悲しかった出来事や、切なかった出来事――人生を彩った、忘れがたい一瞬の連続が」
すずは案内役の使命といわんばかりに、理路整然と説いていく。
「さぁ、扉を選んで。空っぽの器に愛する記憶をつめこんで、虚ろな存在からもう一度、お兄さんになるために。そして、ちゃんと幸せになるの」
「幸せ……?」
急に思ってもみない言葉をかけられて、面を食らってしまう。
だって、幸せになろうという意識なんて、欠片もなかったから。
もし、現実世界で満たされた人生を送ろうと思ったなら、僕は自分の魂を穿つ空白から死ぬ気で目を反らしていたと思う。
きっと、これから僕がしでかそうとしているのは無謀な賭けだ。
だから、もう引きさがるという選択肢はなかった。
自分の心の声を聞き届け、青の扉へ歩み寄っていく。
ドアノブを握ったところまではよかったものの、それをひねるには勇気が必要だった。
ふと横目を送ると、すずが頷いてくれる。
どうしてだろう? 不思議と力が湧いてきて、ドアノブが軽くなった。
扉が開く。向こう側は、目がくらむほどの白で満ちている。
こうして、僕とすずの不思議な旅路が始まった。